タイ・インドネシアにおける権利行使(5)(弁理士・弁護士 加藤光宏)

タイ・インドネシアにおける権利行使(5)(弁理士・弁護士 加藤光宏)

  • 2014年 5月 13日

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【民事訴訟or刑事訴訟?(1)】
 今回の調査研究の中心的なテーマは、タイで権利行使を考えるときに民事訴訟、刑事訴訟のうち、どちらをどのように活用するのがよいか?という点であった。
 タイでは刑事訴訟を第一に考えるべきと書かれている文献も多数ある。確かに、統計上もタイでは刑事訴訟が中心となっているが、これは、タイのDIP(知的財産権局)が刑事手続を推奨したことが一因であるとの情報もある。
 また、民事訴訟は刑事訴訟よりもコストが高く、期間もかかるとの見解もある。しかし、これも事案によりけりである。民事訴訟では、翻訳料が費用の少なからぬ部分を占めるが、CIPITCでは、訴訟の書類や証拠等を英文で提出できる特則の適用があるため、これを活用することにより、翻訳料、ひいては訴訟の費用を低減できる可能性がある。また、刑事訴訟は早いという点についても、事案によっては、検察官が証拠を精査するのに時間を要し、捜査が終了してから起訴まで1年以上を要することもあるようだ。このように考えると、費用や所要期間に基づいて単純に民事訴訟か刑事訴訟かを判断することはできないように思われる。
【民事訴訟or刑事訴訟?(2)】
 これは、今回の調査研究に基づく一つの提案であるが、やはりタイでは刑事訴訟を優先するのが良いと考える。タイでは、共同原告という形で権利者が刑事訴訟に関与することができ、また刑事訴訟での経済的補償も認められているからである。刑事訴訟を優先することで、これらの特徴を活かした対処を行うことができると考えるのである。
 まず、権利者は、刑事告訴し、共同原告として検察とともに刑事訴訟を提起する。そして、この刑事訴訟内で、侵害によって受けた被害の回復も請求するのである。これが認められれば、民事訴訟で損害賠償請求を行ったのと同じ効果が得られる。しかも、警察・検察官と協力して進めるから、捜査を通じて、侵害や損害の立証に必要な証拠を収集することもできる。
 ただし、刑事訴訟のみでは十分でない場合もある。刑事訴訟で請求した被害額のうち、一部が認められないこともあるからである。また、刑事訴訟において有罪判決が下されるためには、侵害者が侵害行為を故意に行っている必要があるが、事案によっては、故意とは認められないこともあるからである。
 このような場合には、その後、民事訴訟を提起すればよい。刑事訴訟で認められなかった不足分の損害賠償の支払いをもう一度求めるチャンスが得られることになるし、故意で無罪と判断された場合でも、「過失」ありと認められ、損害賠償請求は認められる可能性もある。しかも、刑事訴訟で警察・検察によって収集された証拠は、民事訴訟でも活用できるのである。
 このように、タイでは刑事訴訟を優先的に進めながら、民事訴訟を補足的に活用するという方法がよさそうに思われる。なお、同じ侵害事案に対して、刑事訴訟と民事訴訟の双方が提起された場合、裁判所は一方の判決が出るまで他方の審理を停止しておくとのことである。民事訴訟、刑事訴訟のいずれを先に進めるのかという点については、確認できなかった。

(続く)


タイ・インドネシアにおける権利行使(4)(弁理士・弁護士 加藤光宏)

  • 2014年 5月 10日

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【抗がん剤製法特許侵害事件(3)~権利範囲の解釈】
 抗がん剤製法特許侵害事件でCIPITCと議論をした点がもう一つある。特許権の権利範囲の解釈についてである。
 タイの特許法は、日本と異なり、均等論の適用を明文で規定している。つまり、タイ特許法36条の2では、「特許発明の保護範囲は、クレーム中に特に記載がなくとも、…クレームに述べられているのと実質的に同じ特性、機能及び効果を有する発明の特徴まで拡大される」と規定されているのである。
 この規定は、均等論の適用について明文化したとも読めるが、同時に、クレームの解釈方法について規定しているとも読める。後者の解釈に立てば、クレームの文言を厳格に解釈する必要はなくなり、均等の範囲を含めた幅を持った解釈が許されることになる。
 ディスカッションにおいて、CIPITCからは、「クレーム解釈について確立された判断手法がある訳ではない」との回答を得ており、上述の疑問点については明らかにはならなかった。しかし、CIPITCは、「均等論については権利者がそれを主張したときに考慮する」とも述べていた。このことから考えると、クレームについて日本と同様の文言解釈を行った上で、権利者が主張すれば均等論についても考慮するという2段階の権利解釈となるのであろうか。この場合、法律において均等論が名文で規定されているのに、権利者が主張しないときには、それを考慮しないという解釈が許されるのであろうか。
 このように、クレームの権利範囲の解釈方法についても、まだまだ問題点が存在するように思われ、今後、種々の事案が表れるごとに大きく変遷していく可能性もあると思われる。
 抗がん剤製法事件では、CIPITCと最高裁で判断が異なった。被告の製法では「アセトン」を使用しており、原告の「アルコールを使用する」というクレームの均等範囲に属するか否かの判断が、両裁判所で異なったためである。しかし、残念ながら、調査した範囲では、判断が異なることとなった理由の詳細は、わからなかった。
【権利無効の抗弁?】
 日本における特許権の侵害事件では、対象となっている製品等が特許権の権利範囲に含まれるかという属否論と、特許が無効であるとの抗弁とが主張される。タイにおいても、無効の抗弁が主張されるのであろうか?これがCIPITCでの3つめのディスカッションのテーマであった。
 結論として、タイでは、訴訟において、「特許無効の抗弁」を主張することはできないとのことである。タイでは、特許の有効性については、権利取消訴訟で争う必要があるのだ。従って、訴訟において特許の有効性を争いたい場合には、権利取消訴訟という別訴を提起する必要がある。そして、権利取消訴訟を提起すれば、裁判所は、侵害訴訟と権利取消訴訟とを併合して審理するようである。仮に権利取消が認められると、それはその訴訟限りの効果ではなく、対世効を有することになる。
 もし、被告が、権利取消訴訟を提起せずに、侵害訴訟の中で特許の無効を主張したとしても、裁判所は、あくまでも権利は有効に成立しているとの前提で判決をする他ないとのことである。タイにおいて特許の有効性を争う場合には、注意を要する点である。

(続く)


タイ・インドネシアにおける権利行使(3)(弁理士・弁護士 加藤光宏)

  • 2014年 5月 05日

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【抗がん剤製法特許侵害事件(1)~事案の概要】
 ここで判例を一つ紹介する。CIPITCとのディスカッションの題材とした判例である。
 余談になるが、タイでは、判例の検討を行うことは容易ではない。タイの弁護士に聞いたところによると、判例にアクセスすること自体が非常に難しいとのことである。一応、最高裁などの判例は、タイ語で公開されることとなっているのであるが、どのような判例が公開されているのか、調査に資する情報が得られるのは、公開よりも相当遅れた時期であり、最新の判例を勉強するということが非常に困難だと嘆いていた。
 ここで紹介する事例(2009年10月29日の最高裁判決)は、調査に協力していただいたタイの法律事務所が扱った事件であるため、比較的詳細な部分も把握できているからである。
 原告のアベンティス・ファルマS.A.社は、タイにおいて抗がん剤の製造方法に関する特許権を有しており、抗がん剤TAXOTEREを製造販売していた。被告のバイオサイエンス社は、DAXOTELと呼ばれる抗がん剤をインドで製造し、タイに輸出していた。タイ特許法では、製造方法の特許権は、日本と同様、その方法で製造した製品に及ぶ(タイ特許法36条)。従って、争点は、被告がインドで行っている製造方法が、タイでの特許権の技術的範囲(均等範囲を含む)に当たるか?という点である。
 CIPITCは、被告の方法は、均等範囲に含まれ原告の特許権を侵害すると判断した。最高裁は、この判決を覆し、均等の範囲には含まれず、特許権侵害に当たらないと判断した。
【抗がん剤製法特許侵害事件(2)~製造方法の推定】
 被告が製造販売するDAXOTELの製造方法について、タイ特許法には製造方法の推定規定がある(タイ特許法77条)。同規定は、適用要件として「被告の製品が特許された製法で製造された原告の製品と同一または類似のとき」というものがある。平たく言えば、被告製品と原告の特許製品とを比較し、同一または類似ならば、製造方法も同一であると推定するという規定なのである。
 しかし、特許権の侵害で、「原告の製品」が比較対象として挙げられることには、どうも違和感を覚える。そこで、CIPITCでは、この点についてディスカッションを行った。当方の疑問点としては、①原告が特許製品を製造していないときには、77条の推定規定は適用されないのか?、②被告製品を発見した後、原告がそれに似せて製品を製造販売したときでも、77条は適用されるのか?である。
 CIPITCの回答は、「原告が製造していないという事例が過去になかったため、①②の問題点については、考えたことがない」とのことであった。そして、①②のような事例では、確かに適用することができず、問題が生じるかも知れないと述べ、今後の法改正でテーマとなり得るかも知れないとの話であった。また、タイ特許法について、まだまだ改正すべき点があるとも述べていた。やはり、まだタイでは特許権の侵害事件の件数が少なく、特許法についても問題点が顕在化しないまま過ぎている点があることは否めないであろう。
 抗がん剤製法事件では、結局、被告側がDAXOTELの製造方法を立証することによって、77条の推定規定の適用を回避したようである。

(続く)


タイ・インドネシアにおける権利行使(2)(弁理士・弁護士 加藤光宏)

  • 2014年 5月 01日

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【刑事訴訟の特徴】
 日本では、知的財産権の侵害に対して刑事手続がとられることは、多くはないが、タイでは刑事手続が90%以上を占める。刑事手続は、特許権などの知的財産権の権利者が警察に告訴することで開始される。
 タイの弁護士および検察に聞いたところ、タイでは告訴は比較的受理されやすいとのことであった。例えば、小売店などの店頭で侵害品が販売されている場合は、自身が権利者であることを示す証明書(登録証など)、侵害品のサンプルがあれば足りるとのことである。告訴が受理されると、警察が捜査を行い、検察に事件を送致する。その後、検察が捜査で得られた証拠を精査して、起訴すると刑事訴訟が開始される。訴訟手続は検察官が行う。
 日本と異なり、タイでは、権利者自身が起訴する場合、検察官が単独で起訴する場合、検察官と権利者とが共同原告として起訴する場合の3通りがある。検察官が単独で起訴した後、権利者が加わることによって共同原告になる場合もある。
 このように、権利者が刑事訴訟に関与することができるのが、タイでの刑事訴訟の特色である。共同原告となった権利者は、訴訟においても検察官と同様に立証活動を進めることができるが、実務上、検察官が主体となって訴訟手続を進め、共同原告は検察官をサポートすることが多いとのことであった。
【民事訴訟の特徴】
 タイで民事訴訟は、概して刑事訴訟よりもコストが高く長期間かかると言われている。コストの多くは、翻訳料が占めるようである。民事訴訟の場合、証拠書類等を全てタイ語に翻訳して提出する必要があるからである。ただし、CIPITCで行われる知的財産権訴訟の場合、当事者の双方が同意すれば、特則により、証拠等を英語で提出することも認められる。実際、ほとんどの場合、英語で提出することについて同意が得られているようである。英語で済ませることができれば、翻訳料はかなり抑えることが可能となる。知的財産権訴訟では、CIPITCのみで認められる特別な手続を効果的に活用することが好ましい。
 民事訴訟において、証拠保全など、日本でとりうる措置は、一応、タイにおいても用意されていると考えられる。民事訴訟の際、外国の書類には、全て公証および領事認証が必要となるなど、独特の制度もあり、証拠の提出には時間を要すると思われる。こうした特徴は、種々の資料で挙げられてはいるものの、それに対する対策は、ほとんどないというのが実情であろう。訴訟になることを予想し、しかもその訴訟で、どのような証拠書類が必要になるかを予想した上で、公証等の準備を進めておくことなど不可能だからである。

(続く)


タイ・インドネシアにおける権利行使(1)(弁理士・弁護士 加藤光宏)

  • 2014年 4月 28日

【はじめに】
 平成26年1月31日に日本弁理士会東海支部主催で「知的財産セミナー2014 -タイの知財丸わかり」が開催された。このセミナーは、
 ・タイ、インドネシアの知財動向
 ・特許セッション(出願、小特許、出願戦略等)
 ・商標セッション(出願、審査、識別力、周知商標等)
 ・権利行使セッション(刑事訴訟・民事訴訟の特徴、訴訟事例等)
の4部構成であり、筆者は権利行使のセッションを担当した。セミナーで用いた資料は、弊所ホームページ内の出版物/講演資料のコーナーにアップしてある。このブログでは、今後、数回に分けてセミナーで用いた資料の解説記事を掲載する予定である。

 日本弁理士会東海支部では、上記セミナーに向けて、東南アジア委員会を立ち上げ、タイ・インドネシアの知財制度の調査研究を行ってきた。この活動では、はじめに種々の文献、資料、インターネット上の情報などを収集・検討し、疑問点を整理した上で、2013年10月に、現地調査として、タイの法律事務所、裁判所(CIPITC)、最高検察庁などを訪問し、ディスカッションを行った。上記セミナーには、これらのディスカッションを通じて得られた情報もふんだんに含まれている。ディスカッションで得られた情報等は、あくまでもディスカッションに応じていただいた現地の弁護士、裁判官、および検事の私見に過ぎない場合もあるため、記事の中では、ディスカッションで得られた情報を区別できるように気をつけたいと思う。
 以下の記事に付した見出しは、それぞれセミナー資料の各ページのタイトルである。セミナー資料を片手にご覧いただければと思う。なお、ブログの記事においては、細かく参考文献などは提示しないので、その点も、ご了承いただきたい。

【タイにおける権利行使の方法】
 知的財産権の権利行使の方法としては、裁判所での民事的措置および刑事的措置、税関での水際措置が挙げられる。民事的措置では、差止請求、損害賠償請求が可能である。刑事的措置では、侵害者に対して禁固・罰金などの刑罰が科されることになる。水際措置では、輸入時に侵害品が税関で差止められ、廃棄等される。
 特徴的なのは、刑事的措置において、「経済的補償」が認められていることである。タイでは、著作権侵害については罰金のうち半額を、被害者に交付する制度がある(この制度は特許等にはない)。しかし、この資料で述べている経済的補償は、罰金の一部を被害者に交付するということではなく、知的財産の侵害によって被った損害の賠償を刑事手続きの中で請求することができる制度のことである(タイ刑事訴訟法40条~51条)。これは刑事的民事訴訟とでも呼ぶべき制度であり、法律上はあくまでも民事訴訟に分類されるものだが、検察官が被害者の代理人となって損害賠償請求手続きを遂行できる旨が規定されており、被害回復請求に対する判決は刑事判決の一部をなすという位置づけになっており、刑事手続と密接に関わった手続きとなっている。刑事訴訟を前提とする請求であるから、有罪のときにのみ損害賠償請求も認容され得るのであり、無罪判決のときには損害賠償請求も棄却されることになる。(←ここ、結構大切なところ!)
 タイの最高検察庁の検察官は、この刑事的補償について、「被告人を有罪にすることに次いで、損害賠償請求することが検察官の重要な役割でもある。被害者に損害が生じていることが分かっている場合、検察官は、刑事手続において、その損害賠償を請求しなくてはならない。」と述べていた。
 タイにおける権利行使は、全体の95%以上が刑事事件である。その理由は、いろいろとあるだろうが、上述の経済的補償が受けられることも一つの理由として考えられるのではなかろうか。
【タイにおける侵害対応関連機関】
 タイにおいて知的財産権侵害に対処する機関としては、タイ税関、タイ経済警察、タイ商務省知的財産局、タイ検察庁知財専門部、タイ知的財産及び国際取引中央裁判所(CIPITC)、特別捜査機関が挙げられる。それぞれの機関の役割についての説明は省略する。
 タイが知的財産権侵害への対策を進める契機となったのが、1995年のWTO TRIPS協定である。同協定では、加盟国に対し、知的財産権の行使について民事的措置、刑事的措置を整えることを要求しており、CIPITCやタイ検察庁知財専門部などは、この要求に応えるべく設立されたものである。
【タイ知的財産及び国際取引中央裁判所(CIPITC)】
 タイの知的財産権保護において、中心的な役割を果たすのがCIPITCである。普通にシー・アイ・ピー・アイ・ティー・シーと読むしかない。略語にしても長い。それは、タイの人も感じているらしい。知的財産権関係の方は、「IP Court(アイ・ピー・コート)」という通称を使うことが多いとのことである。
 CIPITCは、知的財産権等を専門に扱う裁判所であり、日本の知財高裁と似ている点もあるが、タイの法律上の位置づけは高裁ではなく一審の特別裁判所である。タイでは、知的財産権の民事、刑事事件は、全てCIPITCに係属する。そして、通常の事件は、日本と同様に三審制であるが、知的財産権事件は、一審がCIPITC、二審が最高裁という二審制となっている。
 CIPITCは、三人の裁判官が審理に当たる。裁判官の構成は、二人が判事(Career Judgeと呼ばれる)、一人が補助判事(Associate Judgeと呼ばれる)である。補助判事は、エンジニア、技術の研究者、弁理士など、技術的なバックグラウンドを有している者がなる。このように、技術的なバックグラウンドを有する者が加わることにより、特許事件など技術的な理解が欠かせない案件にも対応できるようにしているとのことである。補助判事も裁判官の一人であるため、日本における専門員と異なり、判決に加わる。単に技術を判事に解説することだけが役割ではない。
 CIPITCでの訴訟では、通常の訴訟手続と異なる固有の手続が設けられている。例えば、遠隔地にいる証人に対する尋問の便宜を図るためテレビ会議システムを利用した尋問が認められており、当事者の合意があれば証拠書類などもタイ語でなく英語で提出することができる。これら固有の手続きは、民事訴訟法、刑事訴訟法ではなく、「CIPITC設立および手続法」に規定されている。従って、知的財産権について訴訟を遂行する際には、同法の内容を確認することが必要となる。


弁護士費用の支払いに備える保険の普及(弁護士 中村博太郎)

  • 2014年 3月 04日

交通事故に関する法律問題においては保険会社が関わってきますが、最近、いわゆる任意保険の加入に際し、弁護士費用特約なるものを付帯されている方も多いと思われます。
弁護士費用特約とは、一般的に、契約者やその家族などが交通事故に遭い、相手方に対して損害賠償を請求する際に生じる弁護士費用等を保険会社が300万円を上限として負担する特約です(補償内容は保険会社との契約内容によって変わります)。
この弁護士費用特約は、請求額が僅少な物損・人身事故などについて、弁護士に支払う費用を懸念することなく、弁護士に相談・委任することができることに最大のメリットがあるといえます。弁護士に支払う費用のほうが高くつくから、依頼を止め、相手方からの示談内容に泣く泣く応じるといった、いわゆる泣き寝入りを一定程度防ぐことができるのです。
この弁護士費用特約は、最近非常に普及しているため、相談時に相談者様より弁護士費用特約を付帯している旨の申告がなくとも当職のほうから必ず確認するようにしています。
なお、「特約」との名称ではありますが、現在、この弁護士費用特約をオプションではなく自動的に付帯する保険会社さえあるようです。
ところで、このような弁護士費用の支払いに備える保険は、自動車の任意保険に限られません。
最近では、日常生活の種々の場面で遭遇する法律問題について、弁護士に相談・委任した場合に発生する弁護士費用等を保険金として支払う保険も販売されています。このような保険は、訴訟社会である欧米においては、珍しくはありませんが、日本ではまだまだ珍しく、ごく最近になって販売が開始されました。
今後、このような保険の普及が加速することにより、市民の方々にとって、弁護士に対する敷居を低くする効果が一定程度あるといえるでしょう。しかし、だからといって日本が欧米のような訴訟社会になるのかといえばそうではありません。そもそも争いごとを好まない日本人の民族性や訴訟を指揮する裁判官の数などの物理的な問題のために日本が訴訟社会になるとは限らないからです。
それはさておき、弁護士業務に関わる事項として、任意保険における弁護士費用特約も含め、弁護士費用の支払いに備える保険の普及の動向については、今後も注目したいと思います。


高橋選手はSP曲「ヴァイオリンのためのソナチネ」で演技できるか?(弁理士・弁護士 加藤 光宏)

  • 2014年 2月 08日

佐村河内守氏による曲は、ゴーストライター新垣隆氏によるものであると騒がれている。
佐村河内守氏の作曲とされていた「ヴァイオリンのためのソナチネ」を、フィギュアスケートのソチ五輪で高橋大輔選手がSP曲として使う予定であり、作曲者の削除の手続きもとられているらしい。
では、この曲をオリンピックで流すことに、著作権法上の問題はないのだろうか?という点を考えてみたい。もちろん、著作権者の許諾を得ずにという前提である。

著作権などの知的財産権が及ぶ範囲は、各国の範囲内とされている(これを属地主義と言う)。今回、オリンピックは、ロシアのソチで開催されているから、オリンピック会場で曲を流すことができるか否かは、日本の著作権法ではなく、ロシアの著作権の問題となる。
では、日本で作曲された音楽に、ロシアの著作権が発生するのか?というと、この点は、ベルヌ条約という著作権に関する条約でカバーされており、ベルヌ条約の加盟国は、お互いの国の著作物を保護し合いましょうというお約束になっている。ロシアも日本もこの条約に加盟しているから、日本人により作曲された音楽は、ロシアにおいても著作物として保護される。

ここで、未解決の問題が一つある。実は、問題の曲は、誰が作曲者か(著作者は誰か?)という根本の問題が解決されてはいないのだ。
ニュースでは、佐村河内守氏による曲は、新垣隆氏が全て自分で作曲したかのように報道されているが、第一に、その真偽は不明である。新垣隆氏に、第二のゴーストライターはいなかったのか?また、もしかすると問題のソナチネに限っては、新垣隆氏以外のゴーストライターが書いたのかもしれない。(仮に新垣氏が書いたとした場合でも、単独の著作物なのか、佐村河内守氏と共作に当たるのかという問題もあるが、この点については、いずれも日本人なのだからベルヌ条約の適用上は問題なかろう。)
だが、ソナチネを書いた真のゴーストライターが、ベルヌ条約の適用を受けない国の国民だった場合、どうなるか?ロシアでは、民法典第4部に著作権法の規定があり(以下、便宜上、ロシア著作権法という)、1255条に「ロシア連邦国民であるか否かを問わず」保護を受けうる旨の規定がある。従って、創作者であることが立証できれば、例えベルヌ条約の適用を受けない国の国民であったとしても、その著作物はロシアで保護されることになろう。
いずれにせよ、ロシアで、ソナチネに対して著作権が認められることは間違いなかろう。

さて、ソナチネが、新垣隆氏によるものかはともかく、ロシアにおいても著作権法によって保護されるものとした場合、その効力はどうなるか?
ロシア著作権法1270条では、「営利目的、非営利目的のいずれで行われるかを問わず」、「著作物の公の実演、すなわち、公開の場又は通常の家族の範囲に属さない相当数の人物が出席する場所における、生の実演又は技術的手段(ラジオ、テレビその他の技術的手段)による著作物の上演」には、著作権が及ぶとされている。非営利目的だから、著作権侵害にはならないという訳ではないのである。日本の著作権法では、非営利の場合には及ばない(著作権法38条)としているのと、規定ぶりが異なっている。従って、この規定だけを見れば、大勢のお客さんが来場するフィギュアスケートの会場で、ソナチネを流すことは、著作権の侵害に当たり得ることになる。
ただし、ロシア著作権法では、1255条に、「音楽の著作物は、公式の若しくは宗教的な行事又は儀式の際に、著作者その他の権利者の許諾を得ず、これらの者に使用料を支払わずに、当該行事の性質上正当な範囲内において、演奏することができる。」という規定があり、その適用が受けられれば、オリンピックで使用することは差し支えない。
この規定の適用を考えるとき、オリンピック自体が、「公式の…行事」にあたることは特に問題なかろうから、もし、「ソナチネ」を開会式等で使用するのであれば、この規定の適用を受けられそうである。しかし、オリンピックの「競技」、さらにその競技の中での一選手の「演技」は、この「公式の…行事」と言えるのだろうか?
残念ながら、この規定の「行事」という語の解釈を判断するのに十分な資料が手元にはなく、はっきりした結論は出せない。オリンピック全体を広い意味で「行事」と捉えれば、一つ一つの競技、演技も「行事」に含まれそうである。また、「行事又は儀式」と並列されている点を重視して、ある程度、セレモニー的なものが「行事」であると狭く捉えれば、開会式、閉会式、表彰式などに該当しない「演技」は「行事」に含まれないということになる。
このように考えてくると、ソナチネを流すことも、オリンピックだから全く問題ない、と簡単には結論できなさそうだ。もっとも、真の作曲者が、高橋選手の演技に対して(…というか、その演技中にソナチネを流すという行為に対して)、著作権侵害を訴えることは、現実には考えがたいから、事実上は何も問題は生じないとは思われるが。


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